ろんろんろんろんろん

えびみりんと堅揚げポテトの梅こんぶを主食として菜食主義者を目指す

成長に関して感じていること。

C-channelの森川さんと南場さんの対談で、成長したいっていう人は成長できないみたいな記事があがっていましたが、まことしやかに、最近の学生は成長したい、起業したいというマジックワードを並べているらしく(学生なんだけどその界隈の話がよくわからない人間なので)僕なりにこう、人生の賞味期限に切迫する勢いでふみりたいと思います。文るって流行らせたい。ふみる。

<人の能力について>

人の能力をどのようにMECEに分けて考えるかっていうのがひとつ、成長について話していく上で必要だなーっていうのを思うので、それっぽいものを引用してみようと探してみると、どうやら世の中には多重知能論っていう理論があって、これはハーバード大学の心理学者、ハワード・ガードナーが提唱したものなんだけど、これが8つの知能持っていて、人によって強みとなる部分が違うっていう。その8つが

対人的知能
論理・数学的知能
博物的知能
視覚・空間的知能
内省的知能
言語・語学知能
身体・運動知能
音楽・リズム知能

に分けられてる。多重知能論で検索した時にでてきたやつを引用してみるとこんな感じ。

彼は紙と鉛筆だけで測るテスト知能だけではなく、それ以外の知能にも目を向けるべきだと主張しています。「人は皆それぞれ一組のMultipleIntelligences(多重知性)を持っており、少なくとも8-9つの知的活動の特定の分野で、才能を大いに伸ばすことが出来る。(1983)」その想いから、intelligenceに複数形のsをつけています。
MI理論によると、個人があるインテリジェンスを使うことに「より多くの時間をかけるほど、そして、指導と教材が良ければ良いほど、その人は賢くなる」。差異が、否定されたり無視されることなく考慮に入れられたなら、教育は最も効果的に働き、生徒に「自分は何者であり、何ができるか」を理解されることが重要であるとガードナー(1999)はまとめています。

いやーこれは確かにその通りだなって思うわけで、この辺は学習環境によって後天的に育つものなんだよね。このそれぞれの分野を徹底的に極めるとに錦織選手みたいになったりするのかなー。そう考えると、フィジカル面とかよりも運動に対する脳の構造みたいなところが発達していればしているほど、身体が脳の思うように動く、っていったほうがなんか適切な気がする。それに対しては脳番地で有名な加藤俊徳さんの記事が参考になりそう。この人は母に「頭は使えば使うほどよくなる」って言われて育ったそう。

小学3年生から、何でもいいから新潟県でスポーツの1位になって親を喜ばせようと思って、5年計画、あるいは6年計画を立てたんです。中学3年生の8月6日か7日に県大会があって、そこで本当に優勝するんでけど、その前に一人でグラウンドで練習して汗がタラタラたれてるときに「脳だ!」って気づいたんですね。なぜか。「自分の体を動かしてるのは、この脳みそなんだ!」という……。皆さんは今、脳だって何だってわかりますよ。でも40年前の脳なんて、紙切れにも書かれていない、新聞にも出ていない。
要するに、脳というのは「経験して形を変えて成長する臓器」だったんです。身体の中で、未熟から始まりそれでも未完な臓器というのは脳だけなんです。それそのものが脳の役割だったんですね。

経験して形を変えて成長する臓器は脳みそだけらしいですね。脳みそすげー
逆に言えば、使わなければ衰退するってことにもなりえそう。

 

 

<人間種族値論>

 

それに対して僕個人の思う考え方は、種族値論っていう勝手なものを持っていて。これは要は、人間もポケモンと同様に種族値個体値的なものがあるんじゃないの?ってこと。つまり、先天的にきまっている能力差っていうのが存在しているんじゃないの?っていう理論。

600族と呼ばれるポケモンであったり、400族と呼ばれるポケモンであったり、これは、先天的に決まっているもので、
こうげき、ぼうぎょ、すばやさ、とくしゅのうちのいずれかにこう、なんかもともとこれくらいみたいな感じで振り分けられてる。
同じ600族でも、こうげきが140あるやつもいれば、ぼうぎょが200あるやつもいるのと同じように、人間も同様に、もともとの種族値が決まっているんじゃないかっていう仮説。まぁぼくポケモン全然詳しくないんですけどね。

イメージこんな感じ
普段生きていてここ結構重要とされてるよねっていうものと親和性の高いものを配置してみた感じ。別に科学的根拠はない。ただ経験則として、先天的にこのへんに割り振られてるイメージ。容姿は身長体型も含むよね。
これらの先天的才能を認知した段階で、成長促進が開始され、次第に強みの領域、極みの領域に到達していくんだろうと。
この理屈でいうと、凡人は凡人の領域を出ることができない理論になってるから、否定されたい理論ではある。個々のできる限界は決まっていて、その限界を超えた範囲のことをすることはできないって理屈だから。ただ、基本的にこの才能以外の乱数も多分に含まれてるのが人生だから、まぁ全然能力だけでは規定されはしないはず。でもそれにしても世の中はどう天変地異が起きたらそうなるの?っていう先天性を疑いきれないファクトが存在しているのも事実で。
だが、その種族値に関しては790のやつが必ずしも世の中で大成するわけではないし、400のやつが世の中で大成することも往々にして起こっている。

じゃあその違いと共通項ってなんなんだろうねってことを考えていくと、根幹にあるのは考える力、ではなく物事の捉え方だっていう結論に落ち着く。

ここで最終的に話していきたい持論に戻っていくんだけど
成長するっていうのは何を指しているのか、という問い。



<成長する理由について>

「成長したいです!」っていう言葉には何かしらの目的が存在しているはず。なんだけど、世間的な学生を見ていると

①目的が明確
②目的が不純
③目的が明確でない
のいずれかになりやすい。

これらの全てのパターンに対して、成長したいですか?っていう問いを投げられた時に①番の人たちは成長することができそう。
それに対して②番③番に関しては
"目的が明確でないから、何をどうしたいのかがわからないがゆえに、成長したいという抽象度でしか言語化できない"為、成長するのが難しくなっている。成長を促進させるためにはその機会に対しての意義付けを明確にする必要がある。さもなければ、その機会の経験値を大きく損なう恐れがある。

イメージとしてはこんな感じ。
"成長したい"っていう抽象度でIT企業で長期インターンシップを行いました。
ってなった時に得られる実経験値量は本来得られる経験値量を下回るんじゃないか。っていうのが個人的な見解。
それに対して、"自分はプログラミングを3ヶ月で習得し、来年4月に起業する"
っていう抽象度で同様のインターンシップをしていたとしたら、入ってくる情報と気付きの数が圧倒的に変わる。多分プログラミングも自発的に勉強している気がする。それに対して成長したいっていう抽象度の学生は多分インターンをしていることで満足をしている気がする。

要するに、その成長機会に対する意義付けをどこまで明確にするかによって、成長速度が大幅に変わり、その意義付けは目的の明確さに左右されるということ。

基本的に世の中のアクティビティで学べないことはあんまりなくて、その機会をどういう角度で見るかによって、成長の仕方は大きく変わる。言い換えると、成長スピード、ここでいう精度があがる。精度は一度あがると下がることがあまりないので、コンスタントに成長スピードを上げ続けることができる。

とはいいながら根本的に思うのは、
世の中のだいたいの事象の解釈は考え方次第で大きく変わる為、
最も先に熟成、成長させるべきなのは、自分の考え方であり、
成長する為にはまず成長したい理由について熟考すること。な気がする。

成長というものをどう定義するのかにもよるが、結局のところ、その目的の究極的なところは自分の幸せを享受したいが為にすぎない。が、その幸福ロジックをそもそも自分の中に持たず、自己利益の追求をもたらす成長を掲げている人は存外多いんじゃないのかなっていうのが個人的な所感。
そういう人は確かにスキルセットは充実しているけど、幸せにはなれていないし、伸び悩みが発生する。

<成長プロセスの妥当な順序>

もし能力をマインド、ナレッジ、スキルで分けるとしたら、自分だったら、この順序で能力開発していくのが妥当だろうと。なんでかっていったら、例えば自分に自宅から新宿まで15分で攻める自動車運転技術は自分の人生において必要ないと判断するのはナレッジからくるし、そもそもあなたは何をしたいんですか?という問いに答えるのは常に自分のマインドによって回答されるから。この辺はメタップス佐藤さんのロジックを超えたロジックも参考になる

構築できる「ロジック」はその人がかき集めれられる情報の範囲に依存し、それを見て「納得」するかどうかは意思決定を行う母集団の背景知識に依存してしまう、という事になります。


確かにスキルセットが充実していて、実績もきらびやかな人間は評価されやすく賞賛を得られやすい。(現代においては若干変化が見られ始めている気がするけど)例えば東大に入学することは世間的に見ても賞賛に値する実績だと思う。が、そもそもなんの為にあなたは東大に入るのですか?という問いに適切に答えることができないと、そのスキルセット(東大に入ること)が無駄になることは本当に多い。もしくは、マインドセットの段階で到達点が著しく低い、例えば生活の安泰などを掲げてしまうと、いくらスキル(またはアビリティ)を磨いてもその効果を最大化させることが難しい。
同様に、承認欲求や賞賛をモチベーションとして活動すると、大体自分の満足できる到達点にくるか、エネルギーが風化して、到達していないにも関わらず一定の評価で満足できてしまうケースがある。時間が経つにつれてエネルギー量は減少するのが一般的で、エネルギー量が減少すると共に満たされる基準も下がるから。
結論として、まずは人間性を磨いていくことにどちらかというと注力するのが学生のうちはいいんじゃないの?っていうところと、人間性を磨く(マインドを磨く)ことは別に特別なことではなく、どのような機会においても人間性を磨く機会は多分にある。要は機会依存しないっていうところをもうちょっと学生は理解しておく必要があるんじゃないかなって学生身分ながら、周りを見渡して思うこと。



<生き方の大切さ>

成長したいです!っていう目的ってそもそもなんなんですか?っていう成長の動機付けみたいなところって、つまるところどう生きていきたいかに尽きるんじゃないのかなって。そうなってくるとやっぱり古典とか、偉人の話は個人的には大切にしたいなーって思う。その中でも個人的に格別だったのは稲盛さんのお話かなって。

「一つのことに打ち込んできた人、一生懸命に働きつづけてきた人というのは、その日々の精進を通じて、おのずと魂が磨かれていき、厚みのある人格を形成していくものです。働くという営みの尊さは、そこにあります。心を磨くというと宗教的な修行などを連想するかもしれませんが、仕事を心から好きになり、一生懸命精魂込めて働く、それだけでいいのです」、「自分がなすべき仕事に没頭し、工夫をこらし、努力を重ねていく。それは与えられた今日という一日、いまという一瞬を大切に生きることにつながります」

稲森さんの方程式で有名なのが以下のやつ
「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」
考え方ってのは100~-100点まであって、考え方がマイナスに働いてしまうといくら能力があっても幸せになることが難しいみたいな。

この考え方っていうのを生き方から引用するとこんな感じ

「つねに前向きで建設的であること。感謝の心をもち、みんなといっしょに歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心をもっていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲ではないことなどです」

これがお客様の健康を全く気にせず、売上だけを伸ばすことに尽力したり、従業員のことを顧みずに働かせ続けるとうまくいかないっていうのは世の中になかなか多い反例な気がする。

今自分が私利私欲の為に走っていないか、自分の名誉や賞賛の為に動いていないかを考えてからJAL(KDDIだっけ?)の会長に就任したエピソードは、僕の生きていきたい他者成長の為の自己成長に大きく通じるところがあるなーって思った。

 

<何の為の成長か>

成長する理由っていうのがなんの為なのかっていうのを考えていくと、最終的には自己から分離してくるんじゃないのかなーっていうのか個人的な見解。結局のところ、人はひとりでは生きていけないんだろうなーってことを、他者から賞賛や承認を求める人間の性からも考えてみたりする。
中盤で記載したけど、他者の為の成長も究極的に自分の幸福を享受する為にすぎないのであるのは間違いないのかなって、でも相互依存的に幸福追求がなされることは悪くないなってことを思ってみたりする。

<僕が成長する理由>

感動するくらいきれいな賞味期限の記事は、僕の生き方と少しだけ似ている部分があるのかなって思っているからこそ、僕と佐藤さんのような境遇に生まれる日本人の行き着く所はこういう考えなのかな。また、だからこそこの人には負けたくないなって思うようになった。

昔は意識していなかったんですが、事業や人生の選択をするときは必ず一番難しい道を選ぶようにしてきました。最初は自身の成長のためだと思っていました。でも、最近それは違うと気付いたんです。そもそも私は超めんどくさがりなんで矛盾した行動なんです。
実際は、過去の自分(のような人)に対して「事例」を示したかっただけでした。
先行事例が無いと人間は何かを信じるのがとても難しいんです。自分の未来を信じることができないことほど不幸なことは無いと思っています。
今までやってこれたのも、先行事例を作ってくれた人達が居てくれたからであって、どうしたら良いか解らない時もその「事例」こそが自分にとっての唯一の「希望」でした。
生まれたときからたくさんの可能性が用意されてる人もいるし、そうでも無い人もいます。ゲイツの言うように人生は公平では無いですし、現実の残酷さは否定できないんです。
それでも過去の自分のような人には「人生はこんなものだ、しかたないんだ」と言って欲しくなかったから、できるだけ難しい道を選んで「不可能なことなんてあり得ないし、人間は何者にだってなれるんだ」という事を証明したかったんだと思います。
きっと誰かに貰ったものを返したかっただけなんだろうと妙に納得できました。
それを思い出して、やっぱり『理想』は絶対に捨ててはいけないんだとまた思えるようになりました。

僕が生きる上で大事にしている道徳・生き方・考え方は
内発的動機づけ、共同体感覚、返報性の3つ
誰かにもらったもの(恩)を他の誰かに返し続けることができたら、幸福は相乗連鎖に包まれるなーと。その返報性の連鎖反応を起こす為にアントレプレナーシップを持って、自分が行動に起していくことで、自分と同じような境遇の子どもたちや、これからの時代に生まれてくる人々のロールモデルになれるんじゃないかって思うようになった。
僕の行動の結果がゆくゆくは教育や世の中をより良くすると信じているから、成長角度を緩めることを決してしてはならないなって思うし、その焦燥感から、なんでそんな頑張ってるの遊べばいいじゃんって言われても遊ぶ気にはならず(別にそんな頑張ってないし)、むしろ今が一番楽しいように生きているって自信をもって言えるんだと思う。