ろんろんろんろんろん

えびみりんと堅揚げポテトの梅こんぶを主食として菜食主義者を目指す

最近考えていること3

 

言語化作業がどの程度必要かどうかについては、言語化作業を実際に行ってみるのが一番いいと思っていて、日記というのは思考のアウトプットとして最も威力を発揮すると思うんですよね。思考の言語化作業っていうのは自己内省の客観的思考とでも言い換えられそう。毎日できたらいいんだけど、僕は基本的に一日でアウトプットを出しきることができるタイプじゃないので、備忘録としての役割も必要なのかなと。その意味で、140文字という制限は僕にとって心地良いリズム感になってる(今日はとてもツイート廃人ですね)
前置きとして、一日でアウトプットを出しきることができないというのは一方で、一日でアウトプットを出しきらず、仮説検証を繰り返す必要性とアイデアセレンディピティを待つっていう側面があるので、必ずしも悪いことじゃないというか、問題が複雑であればあるほど、この仮説を立てる作業とその仮説を検証する作業と、その仮説を寝かせる作業が割と必要だったりする。



<特別な存在と認識論について>
個人の存在における特別は個体の認識に依存するっていうのが僕の持論なんですけど、今回はその点における自身の考えみたいなのを発散しつつ収束できればよいなというふうに思う。

特別な存在で在るというのはなかなか難しい命題で、これはちょっと考え方を見誤ると思考停止ともとれる結論に至ってしまう危険性があるので、なるべく価値のある解釈を行っていくことが必要だと思う。
まず、特別な存在というのは、わりかし環境との相対比較から成り立っているのが前提としてある。特別っていうのを辞書引きすると

"他との間に、はっきりした区別があること。他と、はっきり区別して扱うこと。また、そのさま"

って書いてあった。更に、ウィキペディアではこんな感じ

"「特」には抜き出るだとかほかの物より優れているという意味がある。特殊(とくしゅ)ともいう"

これを人と人との間で考えると、
「その対象が他の人とは違って優れているという区分がある」
ということになる。
だからこそ、特別な存在っていうのは相対比較がなされる存在がいてはじめて特別で在ることができるらしい。

だがその実は真逆で、環境との相対比較から成り立たない存在が特別であるというコペルニクス的転回に持っていくことができるっぽい。ただし、そのまえに相対比較がなされる存在がいてはじめて特別である論理について先に述べる必要がある。
まず特別な存在を推し量るには相対比較基準が必要になってくる。すなわち、その人だけに存在する"突出した何か"があるということ。これはつまり、他の人達にはなくて、その人だけにはある、という相対比較によってはじめて理解することができる。また、僕があえて他者との相対比較から成り立つと定義しないのは、取り巻くコミュニティが変動することによって、普遍であるか特別であるかが変わるからだと考えている為。
例えば公立中学の同級生の中に一人、東大生がいたらその人は突出した学力を持っている点において、特別であるといえるが、東大生というコミュニティの中ではコモディティ化してしまうので、特別ではなくなってしまう。

つまり、以下の二点が確定されて初めて特別な存在と認識することができる。
①環境、人の場合はコミュニティの範囲を確定する
②相対比較基準において突出する何かがあると認識する

ここまでくると簡単に以上の①と②が変動しうるという点において、特別な存在であるかは曖昧な価値判断基準でしかないのではないかという疑問が発生する。すなわち、環境との相対比較から特別な存在は成り立たないのではないか、という仮説が生まれるということ。
結論からいうと、個人の存在における特別は個体の認識に依存する(なんか当たり前のことをどやどや書いてる人みたいになってるけど笑)
①と②を規定するのは個人の裁量次第であり、認識の範疇によって確定される。これをコミュニティで統一の価値観を形成すると、
①一般的な日本社会において
②東大に合格するということは
③特別である。
という感じになる。(その他の例としてマッキンゼーに入る人が特別であるであったり、三菱商事から内定を獲得する学生が特別であるというのもこの幻想的価値基準から生じている)

だがこのコミュニティを同じような価値尺度で世界に広げると
①世界的にみて
②東大に合格するということは(東大よりも優れた大学が存在する点において)
③特別でない
という感じになるわけだ。

ここで新しい結論が導き出される。それが、
"コミュニティが形成する幻想的価値基準に依存して特別な存在であろうとすればするほど、特別な存在になることができない"

特別は他の物事とははっきりとした区別があることが前提としてあるから、東大に合格することが特別であるから東大に入るという価値基準で行動してしまうと、同じように考える東大受験生と差別化を図ることができない。
要するに、東大生は東大生という括りにおいて、あいまいな区別がなされているため特別になりきれない。
これはそのコミュニテイを形成している人たちにとっては大きな執着、こだわりであるんだよね。ただ一般的な国民にとって、100mを9秒台で走ろうが10秒フラットで走ろうが、両者ともに"足がものすごく速い人たち"でしかないんだよね(そのこだわりを持つことには全面的に肯定しているが)
結局、個人の存在における特別は個体の認識に依存してくる。

さぁ、ここで初めてコペルニクス的転回がものを言い始める。それが、
"環境との相対比較によって成り立たない存在こそが特別である"
という結論。結局のところ自分という個体が特別であるかどうかは、幻想的価値基準で規定され得ないのだ。個人の存在における特別は個体の認識に依存しているから。

結局、自分が自分であるという認識を高め、他者からの評価から独立した存在になって初めて、自身が特別であることを知覚するから、比較社会に生きる必要はない。生き方を大事に、かつそれにこだわって天寿を全うしたほうがいいよねって。

最後になったけど、僕がそんな比較社会に片足を濡らしながら、このままじゃだめだと幻想的価値基準に惑わされている時に、僕は僕でいればいいことを教えてくれたことその存在自体は、僕にとっては環境との相対比較になんかじゃ成り立たない存在であり、特別である。ということが言える。そしてそれが最も言いたかったこと。