ろんろんろんろんろん

えびみりんと堅揚げポテトの梅こんぶを主食として菜食主義者を目指す

堕落論

最近の自己内省を改めて文章化しておく必要性を感じたので今からつらつら書いていきます。

タイトルは坂口安吾 堕落論より

 

 

ヤリタイコトってなんやねん

今まではコレをやる!って決めたものに集中していればよかったのに、これからの人生はどうやらそうもいかなそうなことをひしひしと感じていた最近でした。
多分、今までの自分がヤリタイコト(笑)とかを考えずにここまでこれた理由は、情報の少なさ故な気がしています。多分人は選択肢が少ないほうが、より幸福に生きられるように出来ている。これは行動経済学的ななにかでも実証されていますよね。
例えばパソコンが欲しいと思った時、定価10万円のパソコンをより安く買おうとする人と、9万円で買う人とで感じられる満足度が後者のほうが高いという、あれ。
前者の人は何が起きるかって言うと、「これ以上安く買えたらどうしよう」的な不安と、8万で購入し、これ以上ない安さだと思っていたが、7万7000円で売っているのをみつけてしまうという、悲しい性があります。こういう人たちは、自分が購入してからも安いパソコンを探してしまう習性にありますね。
丁度第一志望から内定をもらったのに、まだいい会社があるんじゃないかと悩んでしまう就活生と同じ心理ですね。

はい、でも今の僕達というのは、溢れる情報に常にアクセスしていて、その情報の正確性や価値観というのが統一的なものでないがゆえに、
何をどうしたらいいのかわからなくなってしまう。自分でも確固とした信念があるかって言われたら、これっぽいっていうのはあるんだけど、うーん。的な現象と向き合い続けています。
結論からいうと、一貫した行動連続の先を正解にする。というのが今のところベターっぽいんですけども。ファーストキャリアと呼ばれる社会人一年目をどうするか。この一歩目がめちゃくちゃ重たい気がしている。あくまで気がしているだけ、なんか選択ミスったらもう這い上がれねーんじゃねーかっていう謎のプレッシャー。というのが正直なところです。

しかしながらこのぽっかり穴の空いたような悩み期間を送っている中で不安に駆られながら、しかしこの贅沢な時間こそが、今の自分にとって意外と大切なモノだったナァなんてことを考えています。なんでかっていうと、あくまで個人的に、他者比較のジレンマからの解放を目指していたからです。
この不安は他人からどう思われるかを気にしているから発生しているものなことが多いので、まずはそれを認識することが大事。その上で、今の自分の立ち位置というのが、失われることで損失が発生すると思い込んでいるバイアスを如何にして取るか。というのがテーマでしたので。気にしなければどうてことはないはずなんですけどね。ただそれよりもずっとラクなのは、挑戦者となること。もとより挑戦者であったはずなのに、なぜか今の自分は、今の自分から衰退傾向に入っていると勝手に思っているところがありました。
挑戦者になるには次の目標を掲げることが大切なんですけど、それを見つけるのが大変でしたというお話。

 

ヤリタイコトっていうのは難しいです。例えもし本当にやりたいことがあったとしても、自分の心の中にある様々な障壁が否応無しに差し迫ってきますので。
自分の場合、それを客観的に認識、評価してその他の選択肢と合理的に比較検討した上で、最後は感情的な意志決定に従うっていう方法を取っていることがほとんどだと思います。大抵、主観を取り除くことも出来ていないし、うまくいってるかどうかの判断もその時には出来ないです。

 

また、ヤリタイコトっていうのは、行動に起こす段階において、非常に具体的でしかもカオスな状態であることがほとんどだと思っています。このカオスっていうのは、うまくいくんだかうまくいかないんだかわかんねっぞ!みたいな状態の時です。むしろうまくいくわけねーよみたいな時。でもやりたい。やるしかない。みたいな時。
抽象度の高い状態での、いわば"生きる方向性!"的な文脈でいうと、誰しもがぼんやりと抱くことのできるレベル感で、それも自分の過去の経験から掘り起こされる原体験が眠っているように思います。

しかしその抽象度の高い"ヤリタイ"を具体的にかつより実現性の高い状態に具現化して実行までに落としていくのが非常に難しい。この作業は自分の実力や経験、知識量などに依存しています。

その他のパターンとしてあるあるなのが、ヤリタイコト!をやるまでにある種のハードルや条件を満たさないと行けない場合。

例えば「人の命を救いたい!」というヤリタイコトに対して医者になるという手段。

この場合、医者になるまでに遥かに長い年月(それこそ私立文系の大学生には想像もつかないほどの)をかけて勉強に勤しむ必要と、資格や研修、そして莫大なお金が必要だったりします。

こうなると、先天的な要因が職業選択の可能性を狭めてしまっていると言ってしまっていいと思いますし、僕たちは取り組む前から「いやー医者はやめておくか」ってなるわけですね。

やめておくかーとなるパターンの他の例としては、「40年間、ずっと同じ仕事をし続けるのはどうなんでしょう?」とかいうのをやる前から考えちゃったりします。そんなことは後から決めればいいことなはずなのに、こういう決断を下すコト自体が理知的な判断だと、気持ちよくなっている場合があります。

ヤリタイコト!を具体的にしていく作業の中で難しいのは、外発的なインセンティブと如何にして折り合いをつけるか、というところもミソだと思います。この辺はリスクと総称しても差し支えなさそうな感覚です。
往々にして、まだ手に入れてもない地位や年収などを比較していることがありますが、この辺は面白いバグだと思います。今までの経験でいうと、そういう皮算用をしている時ほどうまくいっていなかったように思います。


ここまでいろんなパターンを上げてきて、 

僕達のヤリタイコト!の抽象度が最も具体的に落ちない場合というか、理由というのは、

「人の命を救う!」手段が医者なのか、看護師なのか、警察官なのかわかっていない場合が多いような気がします。そして僕たちは究極的には看護師でも"なんでも"いいと思っていたりします。

これはなんでこうなっちゃうかっていうと、この手段ひとつひとつに対し、何がどう違うのかっていうのを明確に理解していないパターンと、自分にとってその職業的手段の適性を理解していないパターンとがあると思います。殆どの場合、この2つのパターンのどちらかあるいは両方が不足しています。

大学4年生の難しいところは、具体的に経験していることが圧倒的に少ない為、意志決定の判断材料が伝聞に依存せざるを得ないという点。
なので、自分がどうなのか、という情報よりも、社会的にみて今後どうなっていくか、の情報から自分をどこに置くか、というポートフォリオ的な視点で考えます。
あくまで現段階でわかっている"自分"というのも重要なので、
現段階でわかっている自分×社会的な状況・流れ=職業選択
って感じになると思います。
この"社会的な状況や流れというのは、競合するプレイヤー(ココでいうと周りの学生とか、そこら辺のおっさんとか)がどこに張っているのかというのを情報として鑑みるのも重要だと思っています。
具体的にいうと、学生起業vs就職 みたいな観点と、
業界としてのマトリクス。自分の知人の中で希少性の高いポジションを獲得しにいく場合と、自分の業界や得ようとしているスキルセットとは一見無関係かなってレベル感の他業界との精通。外資金融の投資部門とかいく子と仲良くしたいし、官僚と仲良くしたいんです。同様に、相手からも仲良くしたいと思われる何かを獲得し続けないといけません。同じ会社同じ職種の人たちと仲良くなるのも大事なんですけどね。人と違うものを生み出すのはめちゃくちゃ大変なので、いろんな情報とリークしていたいです。
僕は逆張りをするのが好きなタイプなので、逆張り逆張りをした結果順張りになったみたいなそんな結論でしたが。
とまぁ大学4年生が一様にこんな感じで考えているかって言われたら全く考えてないと思うので今ココに大学4年生の場合と書いた意味あんまりないんですけど、観点として面白いな―的な感じで受け取ってもらえれば。

話はもどるんですが、究極的に、ヤリタイコト!に対する実現プランみたいなのを具体的に詰めていく作業を繰り返していくと、選択肢が多様にあることを知るわけなんです。その中で、どの選択肢が自分にとって最適か〜ってなると、上記にあげた通り、判断に至る情報の何かしらが不足していて、その不足分を補うか、不足している状態でGOを出すかという決断に最終的に行き着く。
結局のところ、人の命を救うというヤリタイコトに対して、究極的に医者でも看護師でも警察官でも良いわけですね。
いろんな情報や周りの人達の話を聞いている感じ、どうやらとりあえずやってみるというのが今のところ最適解っぽい感じもしているんですけど、とりあえずやってみた結果わからなくなってしまったパターンもあり得ると思っていて、自分もコレを経験しているからこそ、「あ、も少し丁寧に考えても良いかな」って思うようになった感じです。


ヤリタイコトよりナリタイジブンの方が重要だった

ナリタイジブンとヤリタイコトの主従関係が
ヤリタイコトを成し遂げる為にナリタイジブンになるという関係だった場合、
ヤリタイコトをみつけてからナリタイジブンに近づいていけばいいと思うんですけど、
僕の場合、自己中なので、ナリタイジブンに到達したいからヤルコトをやる
という主従関係でした。これは性質によると思うとはいえ、
多分誰しも、「それなんでやりたいの?なんでなんで?ねえなんで?」
って言われたら、根源的な理由に何かしら自分に起因するものがあるような気がするんです。そうでなければ、何かをヤリタイと思う動機が全くもって不明瞭になってしまうので、ちゃんちゃらおかしくなってしまいますよね。いやそいう人いたらお会いしたい。
多分今意識していなくても、例えば「お金持ちになりたい自分」とか「みんなからちやほやされている自分」とかそういう自分になりたかったりするじゃないですか。欲求として。
あるいは「より高次な自分になりたい自分」みたいなのもいると思うし、「安定した生活を営みたい自分」もいるかもしれない。
意識しているもしていないにせよ、何かしらナリタイジブンっていうのが存在しているから、そのナリタイジブンに近づくためにヤリタイコトが発生している。
と考えたほうが自然だなーと思ったので、個人的にはナリタイジブンがあってヤリタイコトが発生するという主従関係になりました。
そういうわけで、ヤリタイコトがわからない場合、往々にしてナリタイジブンも明確でないなー
という結論になりました。

ってなった時に「それじゃあナリタイジブンっていうのはどこにいるんですか?」
って話になってくるわけなんですけども。

 

なんか知らないけど痛烈にあるコンプレックスの克服か、今までの人生で経験してきた中で最も幸福度の高い状態=ナリタイジブン じゃね?

 

20数年も生きてきたら、それなりにみんな、自分の人生の中で辛かったり、困難な状況に追い込まれたりしているはずなんです。この程度を相対評価する必要はなくて。
僕でいうと、浪人しているときは本当に大変だった。ふえええ。

その時に自分がどう思ったのかとか、どうしたのかーとか。
そういうのって思考行動習慣として既に備わっていたりします。
多分その延長線上にナリタイジブンがいるような感覚があります。あるいはその延長線上に抽象度の高いヤリタイコト!があったりします。

 

自分の場合

あくまでココであげた話っていうのは、具体的なパターン自分を抽象化して再抽出しているだけなので、 まあこんな感じでしたといってしまえばそれまでなのですが(自分の場合って言ってるし)

 

ナリタイジブンっていうのは、大学2年生の時に感じた、自分の人生ってこうあったらすごい良いんじゃね?っていう仮説を大学3年生の時に実証してみて、「おお、間違いなくこれっぽいわww」ってなって、

んじゃあその大学3年生の経験をめっちゃスケールさせた時に最終到達地点あんぞ、みたいな。
んじゃあその最終到達地点において、最も重要な要素、最も自分の幸福度をあげるファクターってなんなんだっけ?って考えていった時に、
ああ、今の自分が最終到達地点の自分よりも強烈に不足していて、そして喉から手が出るほど切望しているそれやんな。
という結論に至りました。恥ずかしいので具体的には書かないのですが、
それだけを自分は必要としているとしても過言ではないくらい、大切な、ナリタイジブンでした。

そうなってくると自然に、行動が変わってきます。
到達したいなりたい像から不足している要素は、あくまで肯定的な他者比較、というよりロールモデルからパクる。という方が妥当なのですが、
大学生活を後悔のないように終わらせる為に、やり残したことのないようにしたいっていうのも出発点としてありました。
そのため、残りの大学生活はとにかく勉強しよーって思い、いろんな本読んでます。
あとはそれが逆張りにもなってんぞ。という感覚。
とはいえ、最近は勉強しているというより、世の中(特に人)を構造的に、原理的に理解したいっていう欲求に基づいている感覚のほうが強いです。

 

ナリタイジブン×抽象度の高いヤリタイコト=具体的な目の前のコト

こうなってくると、大体到達地点までの登り方を決めるのがすごくラクになってきます。「ああどうやら自分は医者になるというよりか、薬剤師になったほうが良さそうや」的な感じでパターンCが見えてきたりします。

具体的な職業選択や、アプローチ方法の選択は、今の自分の不足部分を補うように選択をした。というのが僕の結論です。とはいえ、究極的になにをどうしていようが生きていればナリタイジブンに近づけるんですけども、そのスピードができるだけはやいほうが良いだろう。という感じでした。

 
抽象度の高いヤリタイコトでいうと、僕の場合最近ずっと変わらず、
日本人の労働時間はもっと減らした方が良いよねえ
というやつです。これは働き方を根本的に変える必要性と、自己実現がもっともっと容易になる社会っていうのをサッサと達成しないといけないよねっていうHowとしてのソリューションでした。(この前のビジネスプランの発着点はそこから来てます。)

んじゃあそれを如何にして達成するかっていう登り方は割と複数解あるので、正直どれでもいいっていう結論でした。
ただ現状の不足分を考えると、実現できそうな距離感になった時に選択肢がそこそこあった方が良さそうな気がしたので、
じゃあ出来る限りテクノロジーで働き方を変えられそうなところ(資本力があり、テックにお金投資しまくっていて、それでいて未開拓の土地がいっぱいあって、若手に裁量権を多く持たせてくれそうなところ)に身を置いておきましょう。
というのと、制度・政策として変革可能性の高そうなところに身を置いておきましょう。
ついでに自己成長しましょう。
みたいな感じで意志決定しています。
18卒になる予定だったんだけど(中退しようと思ってたけど卒業はしたほうがいいという結論に至る話があります)なんだけど、なんか美味しい話ないかなと思って一社だけ受けておいたら、10月入社でもいいよーって言ってもらえたので、それなら行きます。みたいな感じで決まりました。

 

なんで一社しか受けなかったの?という問いに関しては
ダメだったら来年就活すりゃいんじゃね?
って思っていたのと、
上記の通り、んまぁ後付け論理もあるとして当てはまる会社ここじゃね?
って思ったのと、
理想の会社とかねーから、縁のある会社に決めてそこに集中したほうがよくね?

尊敬している先輩が複数人入社していて、その先輩が同期が優秀といって喜んでいるからここでよくね?

という答えなんですけども。
振り返ってみるとずっと無駄に選択肢を減らすやり方をしてきたなーと。

選択肢が多すぎると逆に悩むっていう一番最初の話があったので、
こっちのほうがわかりやすくていいなって思っていたんだろうという感じです。

 

っていうか、なんで堕落論なの? 

これまた尊敬している先輩から謎に送られてきた文章だったのですが、
最近の自分がこんな感じだったなーと思ったので、引用しておきます。 

 

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 

 

正しく堕ちて、それに耐え切れず這い上がる。
っていうのは凄い良いなぁと思ったんです。
今までの成功っぽい体験とかそういうものをゼロリセットするくらい「うっわ今の自分終わっとるやんけ」って思ってから、「んじゃもっかい登ろ。」
っていうやり方は、良さそうだな―という感じ。
自己否定的でもあるんですけど、現状の自分に対する肯定感を半分持っているという点において、実践的だなーって思ったんです。
また、それが他者比較からの解放にもつながっていくんやなと。
周りの人が頑張ってると焦るじゃないですか。
でも自分の中で進むべき道と、そのスピード感を覚えておけば、
あんまり気にならなくなってくるはずなので。

 

日本もまた、正しく堕ちていると思います。
堕ちたから海外もいいとは思うんですけど、僕は逆にチャンスだと思うんですよね。脱皮するチャンス。
なまじうまくいってると、改革推進派の声も届かないものなので。

 

 

というわけで、お話の続きはまた次の機会にでも。
もっと具体的な話聞きたいよって人は、連絡ください。