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えびみりんと堅揚げポテトの梅こんぶを主食として菜食主義者を目指す

起業VS就職に対する自分の結論①

こんにちは。

この前の記事では自分の認知に対する言語化を行ったので、
今度は自分の判断に対する言語化をしていきたいと思います。第二弾です。
評判がよかったのかどうかはわかりません。

 

前置きとして、この表題に対する自分のスタンスなのですが、
基本的に判断や解釈っていうのはその人にとってのものでしかないよね

っていうのを念頭に置いていきます。
というのも、自身の考え方として最近これだなぁと思うようになったものに、
"生きていれば、常になりたい自分に近づいているよね"
って考えるようになったからです。
この常になりたい自分っていうのは"常に最上を目指している自分"、というわけではなく、"自分の意識下で想像され続けている自分"であって、"事実や現象を解釈している自分"です。
つまり、今の自分は、過去に自分がそうなるだろうと無意識的に想像していた自分。となっているはずです。多分。
過去に想像していた自分を超えた場合においてのみ、その振れ幅に成長というものがあるので、常に自分が想像している自分を超え続けることが重要でもあると思うんですけど、今の自分が今の自分たりえているというのは、世の中の環境や情報を如何に解釈したかでしかないよねっていう結論にはなっています。
例えば日本に所得格差があって、その先天的な要因が自分の達成を阻害していると解釈している人は常に環境を理由に阻害されたい自分に近づくので、結果としてお金持ちにはならないみたいなケース(なったとしてもその所得に満足することはない)

アドラー心理学から色濃く影響を受けていますが、現代社会をより良く生きていくライフハックとして有用性が高いので、Twitterにも書いてたのですが一応こちらにも記載しておきます。

 

これに対して表題の通り、起業すべきか、就職すべきか?
という問いに対する結論は、「なりたい自分になるように選択をしている」はずであり、なりたい自分を鑑みた時にどっちの選択肢の方がなりたい自分に近づく手段となっているか? で意志決定すれば良いと考えているため、良し悪しをジャッジしているわけでは決してないです。自分にとってどっちの選択肢がよりなりたい自分に近づきそうか、という判断をしていました。そのなりたい自分に到達する過程で必要な、
事業としてヤリタイコトの方向性や自身の志向性、または自分のポテンシャルであったり、能力的適性などを判断材料としています。これは内的な判断要因ですね。コレに対して外的判断要因は、市場環境や交友関係などが判断材料になると思います。ロジックの組み方も影響すると思いますが、どちらが良いか悪いか、というのは常に自分にとっての合理性でしかなく、そのロジックが他の人にとって同じであることは滅多にないということになります。(今ここで上げているロジックという言葉に、自分のWANTを内包してますが、自己認識に対する客観性という意味だと思ってください)

僕の周りにも起業している友人が何人かいたり、知り合いくらいの距離感でいうといっぱいいたりするのですが、そういう友人のことをすごいなーって思っているし、
彼らの選択っていうのは彼らがそうなりたくて選択しているのだなっていうのも理解しているつもりです。その友人の多さでいうと、だからこそ今自分はここで彼らと違うことをしなくてはならないと思っていたりもします。この判断は自分の選択に対する後付けロジックともなってくるのであんまり優れた判断ではないですが、そういう解釈も自分の中にはあります。
書いていて補足しないといけないなと思ったのですが、基本的に人は特にキャリアみたいなものに対して合理的に意志決定することが困難だと思っています。
例えばA社とB社の内定を持っていた時に、どちらにいくかという判断は、
一見合理的に選択しているように見えて、実はA社を圧倒的に贔屓したロジックを自ら構築することがある。
という場合です。
なるべく情報としての事実とそれに対する自分の解釈を分けて記載していきたいと思いますが、綺麗に切り分けることの困難さについては予め記載しておきます。

 

さて、というわけで今から自分の判断というのをつらつらと書いていきたいと思います。

 

判断①機会の希少性

最初に考えたかわかりませんが、意志決定する材料として、
起業した場合と就職した場合の機会希少性について考えてみました。

結論からいうと、起業はいつでもできるという観点で、希少性が薄い

という判断になりました。
では僕達の解釈の中で、何が希少性が高いと感じさせているのかですが、ポイントは2つ

①起業家の人数(マイノリティ性)

②年齢的考慮(学生起業家の希少性)

この判断でいうと、学生起業家は希少性の高い人材であるといえます。

しかし、機会としての希少性でいうと、誰でもできる。と思っています。
つまり、僕達が普段学生起業家の希少性が高いと感じている理由は、
自分のマインドによって行動に制限をかけている人が大多数な為、学生起業家が相対的に希少化する
っていうことなのではないかと思います。この自己制御に対して述べるのは少々めんどくさいので端折ります笑

これはあくまで解釈の話なので、
機会の希少性を考える上で適切な比較軸を作ったほうがいいと思います。
それがこの2つかなぁと現段階で思っているものです。

①学生起業家として機会の希少性を獲得する場合
②新卒採用のカードを切る場合の希少性


この2つについて比較するのが適切だと思います。

これを考えていくと、新卒採用というのは今後の日本社会ではなくなっていくよねーという市場環境としてのプレミア性もありますが、
時間軸で考えた時、もう二度と新卒入社することがない、という意味において、希少性があがる場合があります。(勿論、二度と学生起業家になることがないことも同様です)

どっちの方が価値が高いのか〜でいうと、どっちの方がより付加価値としてリターンを得やすいか、そしてどちらのリターンを自分は好むのか、で考えるのが良いと思います。

この解釈をするのは勿論有用だと思います。ここが比較基準になることもあとあとあるのですが、ここで決断を出そうとすると「そいつの価値観によるよね」っていう全くもってつまらない結果になるので、ひとまずこの比較軸があるよねーということで次に進みます。

 

判断②資本獲得としての判断

自分の判断軸に、どちらの方が稼げるか。というのも実は軸に入っていたりします。
これは大資本と小資本だったらより大きい方が選択の幅が広がるが故に成長しやすい
という解釈と、生活を送る上での安定性 がポイントになってきます。

下図は潜在的に僕たちはこうなることを期待しているよねっていうやつです。

 てきとーにポチポチつくったので、この乖離の適切さとか抜きに、
原則としてこういう曲線を描くよねっていうところを理解してもらえればと思います。

僕は割とお金欲しいな―って思ったりするので、一気に大金が手に入るのとか、魅力に感じたりします。

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この曲線のポイントは、

最短で大資本を手にすることVS中長期的に大資本を手にすること

となっています。
そしてサラリーマンが具体的にどうやって大資本を手にするの?ってなったら、
出世するっていう方法になってくると思います。
つまり、この議論の派生先は、出世して社長になるか、起業して社長になるか 

だったりします。

特に自分の場合はエグゼクティブに近いほうが向いている気がしているタイプの人間なので、いずれにせよ社長にはなりたいと思っています。
そのため、資本軸から派生して、次の判断軸を織り交ぜながら解釈していきます。

 

判断③起業家としてのCEOの希少性VS大企業CEOの希少性

なりやすさだけの基準でいうと、前者の方が圧倒的に簡単です。
後者の方が難しいというか、時間もいろいろなんかかかる。
あとは経営という観点で、
10億規模の会社を経営することと1000億規模の会社を経営するか
ではその内容が大きく異なります。


ココからは解釈についての話なのですが、例えば社会をなにかしら良くしたいと思っている場合、手段として起業するか否か、というのが観点として入ってくると思うのですが、

本当に社会を変えるレベルの会社にするためには、そこそこの規模感の会社にしなくてはならないと思います。そのため、社会的大義を掲げて起業をする場合、1から楽天やヤフー、DeNA、といった会社以上のレベル感を前提としていないといけないし、その規模になったとしても、社会的大義を果たしている会社であり続けるというのは特に難しいと思います。ユーグレナとかは素敵だなって思っていますが、びっくりするほどレアれあれららあjkふぁjlkじぇ;あ
って感じ。

なので、目的として10億規模の会社でもいい場合と、1000億規模の会社でないと行けない場合というのは戦略も手段もまったくもって異なっているというのを理解しなくてはならないと感じました。

自分の場合、学生として起業した場合に、少なくとも時価総額1000億規模の会社を創るというのは今の自分の内的外的判断材料を考えると不可能に近いと思ったので、
申し訳ないけど会社に入って成長させてもらいたい、という考えになっています。
そして特にその理由が自分の決定要因の中で最も大きいと思っています。

 

10億規模の会社でもいい場合というのは、どのようなライフスタイルを好むか。
という生き方の問題になると思っているので、これは後で選択することもできるなって思いました。働いたこともない段階で、どっちがいいとかをジャッジするのはなんか違うと思ったりもしました。
というか10億規模の会社を経営するっていう段階ですら至難の業っぽいので偉そうなことなんも言えないんですけど。

 

じゃあもう少し成功確率の高い方法で、社会的影響力の大きい活動ができないか。1000億規模の会社を経営することはできないか。
そしてその経験の希少性の高さを考えたらどっちのほうがよさそうか。
という判断をした時に、ああできるだけはやい段階でエグゼクティブになれそうな会社に入るのは良い選択だよね、っていう結論になりました。
こうなると如何に最短でエグゼクティブになるか〜の議論から
ベンチャーVS大企業の議論になるので端折るんですけど。

あ、書いていて気づいたんですけど、自分の判断軸により影響力の大きい仕事をするっていうのが暗にあるのが前提になっていました。すんません。
これもロジックを組もうと思ったらいくらでも言えると思うのですが、
社会をより良くしたい!って考えているので必然的に「これで社会はよくなるのか?」みたいなことを考えるようになります。そうなると必然的に影響力の大きさがすごく重要になってくるみたいです。

社会の規模感に対する定義は人によって異なると思うので、それが日本社会の人もいれば、世界で見ている人もいると思います。どっちがいいかっていわれたら世界の方が良いのかもしれないですが、その人の能力や可能性の上限はありそうなので、自分の限界に合わせて決めればいいんじゃね?って思っています。勿論、その限界を決めているのは自分の意識下の想像なんですけど、意識下の想像をよりクリアに、かつより価値の高い想像をするためには、入ってくる情報や付き合う人や環境を変える必要があるので、今の自分が想像できる自分の限界というのが現在の自分の限界であると思っています。

たとえその社会の規模が自分のコミュニティだけであったり、家庭までを対象にしていた場合においてでも、それはその人の他者貢献を実現しているという意味で、とても素晴らしいことになると考えています。
逆に社会を良くするとか言ってるのに家庭を顧みず家族を不幸にしているようでは、なにが良いんだかわかんなくなってくるので、社会規模の定義はとても大事だし、人によってそのサイズが異なっても良いのだと思います。

 

 

・・・という感じで今書いていたのですが、
今から授業で次に書けるのが明日とかになりそうなので、
ひとまずこの辺でアップしておきます。
推敲がまだなので読みづらいところもあると思いますが、勘弁を笑

 

書いていないこととしては多分、具体的な得たいスキルセットとか、なりたい自分の軸と比較した場合の話があったり、全ての軸を統合的にジャッジするとしたらどうなるかーとかが抜けてるので、そこらへん書いていきます。

 

 

 

堕落論

最近の自己内省を改めて文章化しておく必要性を感じたので今からつらつら書いていきます。

タイトルは坂口安吾 堕落論より

 

 

ヤリタイコトってなんやねん

今まではコレをやる!って決めたものに集中していればよかったのに、これからの人生はどうやらそうもいかなそうなことをひしひしと感じていた最近でした。
多分、今までの自分がヤリタイコト(笑)とかを考えずにここまでこれた理由は、情報の少なさ故な気がしています。多分人は選択肢が少ないほうが、より幸福に生きられるように出来ている。これは行動経済学的ななにかでも実証されていますよね。
例えばパソコンが欲しいと思った時、定価10万円のパソコンをより安く買おうとする人と、9万円で買う人とで感じられる満足度が後者のほうが高いという、あれ。
前者の人は何が起きるかって言うと、「これ以上安く買えたらどうしよう」的な不安と、8万で購入し、これ以上ない安さだと思っていたが、7万7000円で売っているのをみつけてしまうという、悲しい性があります。こういう人たちは、自分が購入してからも安いパソコンを探してしまう習性にありますね。
丁度第一志望から内定をもらったのに、まだいい会社があるんじゃないかと悩んでしまう就活生と同じ心理ですね。

はい、でも今の僕達というのは、溢れる情報に常にアクセスしていて、その情報の正確性や価値観というのが統一的なものでないがゆえに、
何をどうしたらいいのかわからなくなってしまう。自分でも確固とした信念があるかって言われたら、これっぽいっていうのはあるんだけど、うーん。的な現象と向き合い続けています。
結論からいうと、一貫した行動連続の先を正解にする。というのが今のところベターっぽいんですけども。ファーストキャリアと呼ばれる社会人一年目をどうするか。この一歩目がめちゃくちゃ重たい気がしている。あくまで気がしているだけ、なんか選択ミスったらもう這い上がれねーんじゃねーかっていう謎のプレッシャー。というのが正直なところです。

しかしながらこのぽっかり穴の空いたような悩み期間を送っている中で不安に駆られながら、しかしこの贅沢な時間こそが、今の自分にとって意外と大切なモノだったナァなんてことを考えています。なんでかっていうと、あくまで個人的に、他者比較のジレンマからの解放を目指していたからです。
この不安は他人からどう思われるかを気にしているから発生しているものなことが多いので、まずはそれを認識することが大事。その上で、今の自分の立ち位置というのが、失われることで損失が発生すると思い込んでいるバイアスを如何にして取るか。というのがテーマでしたので。気にしなければどうてことはないはずなんですけどね。ただそれよりもずっとラクなのは、挑戦者となること。もとより挑戦者であったはずなのに、なぜか今の自分は、今の自分から衰退傾向に入っていると勝手に思っているところがありました。
挑戦者になるには次の目標を掲げることが大切なんですけど、それを見つけるのが大変でしたというお話。

 

ヤリタイコトっていうのは難しいです。例えもし本当にやりたいことがあったとしても、自分の心の中にある様々な障壁が否応無しに差し迫ってきますので。
自分の場合、それを客観的に認識、評価してその他の選択肢と合理的に比較検討した上で、最後は感情的な意志決定に従うっていう方法を取っていることがほとんどだと思います。大抵、主観を取り除くことも出来ていないし、うまくいってるかどうかの判断もその時には出来ないです。

 

また、ヤリタイコトっていうのは、行動に起こす段階において、非常に具体的でしかもカオスな状態であることがほとんどだと思っています。このカオスっていうのは、うまくいくんだかうまくいかないんだかわかんねっぞ!みたいな状態の時です。むしろうまくいくわけねーよみたいな時。でもやりたい。やるしかない。みたいな時。
抽象度の高い状態での、いわば"生きる方向性!"的な文脈でいうと、誰しもがぼんやりと抱くことのできるレベル感で、それも自分の過去の経験から掘り起こされる原体験が眠っているように思います。

しかしその抽象度の高い"ヤリタイ"を具体的にかつより実現性の高い状態に具現化して実行までに落としていくのが非常に難しい。この作業は自分の実力や経験、知識量などに依存しています。

その他のパターンとしてあるあるなのが、ヤリタイコト!をやるまでにある種のハードルや条件を満たさないと行けない場合。

例えば「人の命を救いたい!」というヤリタイコトに対して医者になるという手段。

この場合、医者になるまでに遥かに長い年月(それこそ私立文系の大学生には想像もつかないほどの)をかけて勉強に勤しむ必要と、資格や研修、そして莫大なお金が必要だったりします。

こうなると、先天的な要因が職業選択の可能性を狭めてしまっていると言ってしまっていいと思いますし、僕たちは取り組む前から「いやー医者はやめておくか」ってなるわけですね。

やめておくかーとなるパターンの他の例としては、「40年間、ずっと同じ仕事をし続けるのはどうなんでしょう?」とかいうのをやる前から考えちゃったりします。そんなことは後から決めればいいことなはずなのに、こういう決断を下すコト自体が理知的な判断だと、気持ちよくなっている場合があります。

ヤリタイコト!を具体的にしていく作業の中で難しいのは、外発的なインセンティブと如何にして折り合いをつけるか、というところもミソだと思います。この辺はリスクと総称しても差し支えなさそうな感覚です。
往々にして、まだ手に入れてもない地位や年収などを比較していることがありますが、この辺は面白いバグだと思います。今までの経験でいうと、そういう皮算用をしている時ほどうまくいっていなかったように思います。


ここまでいろんなパターンを上げてきて、 

僕達のヤリタイコト!の抽象度が最も具体的に落ちない場合というか、理由というのは、

「人の命を救う!」手段が医者なのか、看護師なのか、警察官なのかわかっていない場合が多いような気がします。そして僕たちは究極的には看護師でも"なんでも"いいと思っていたりします。

これはなんでこうなっちゃうかっていうと、この手段ひとつひとつに対し、何がどう違うのかっていうのを明確に理解していないパターンと、自分にとってその職業的手段の適性を理解していないパターンとがあると思います。殆どの場合、この2つのパターンのどちらかあるいは両方が不足しています。

大学4年生の難しいところは、具体的に経験していることが圧倒的に少ない為、意志決定の判断材料が伝聞に依存せざるを得ないという点。
なので、自分がどうなのか、という情報よりも、社会的にみて今後どうなっていくか、の情報から自分をどこに置くか、というポートフォリオ的な視点で考えます。
あくまで現段階でわかっている"自分"というのも重要なので、
現段階でわかっている自分×社会的な状況・流れ=職業選択
って感じになると思います。
この"社会的な状況や流れというのは、競合するプレイヤー(ココでいうと周りの学生とか、そこら辺のおっさんとか)がどこに張っているのかというのを情報として鑑みるのも重要だと思っています。
具体的にいうと、学生起業vs就職 みたいな観点と、
業界としてのマトリクス。自分の知人の中で希少性の高いポジションを獲得しにいく場合と、自分の業界や得ようとしているスキルセットとは一見無関係かなってレベル感の他業界との精通。外資金融の投資部門とかいく子と仲良くしたいし、官僚と仲良くしたいんです。同様に、相手からも仲良くしたいと思われる何かを獲得し続けないといけません。同じ会社同じ職種の人たちと仲良くなるのも大事なんですけどね。人と違うものを生み出すのはめちゃくちゃ大変なので、いろんな情報とリークしていたいです。
僕は逆張りをするのが好きなタイプなので、逆張り逆張りをした結果順張りになったみたいなそんな結論でしたが。
とまぁ大学4年生が一様にこんな感じで考えているかって言われたら全く考えてないと思うので今ココに大学4年生の場合と書いた意味あんまりないんですけど、観点として面白いな―的な感じで受け取ってもらえれば。

話はもどるんですが、究極的に、ヤリタイコト!に対する実現プランみたいなのを具体的に詰めていく作業を繰り返していくと、選択肢が多様にあることを知るわけなんです。その中で、どの選択肢が自分にとって最適か〜ってなると、上記にあげた通り、判断に至る情報の何かしらが不足していて、その不足分を補うか、不足している状態でGOを出すかという決断に最終的に行き着く。
結局のところ、人の命を救うというヤリタイコトに対して、究極的に医者でも看護師でも警察官でも良いわけですね。
いろんな情報や周りの人達の話を聞いている感じ、どうやらとりあえずやってみるというのが今のところ最適解っぽい感じもしているんですけど、とりあえずやってみた結果わからなくなってしまったパターンもあり得ると思っていて、自分もコレを経験しているからこそ、「あ、も少し丁寧に考えても良いかな」って思うようになった感じです。


ヤリタイコトよりナリタイジブンの方が重要だった

ナリタイジブンとヤリタイコトの主従関係が
ヤリタイコトを成し遂げる為にナリタイジブンになるという関係だった場合、
ヤリタイコトをみつけてからナリタイジブンに近づいていけばいいと思うんですけど、
僕の場合、自己中なので、ナリタイジブンに到達したいからヤルコトをやる
という主従関係でした。これは性質によると思うとはいえ、
多分誰しも、「それなんでやりたいの?なんでなんで?ねえなんで?」
って言われたら、根源的な理由に何かしら自分に起因するものがあるような気がするんです。そうでなければ、何かをヤリタイと思う動機が全くもって不明瞭になってしまうので、ちゃんちゃらおかしくなってしまいますよね。いやそいう人いたらお会いしたい。
多分今意識していなくても、例えば「お金持ちになりたい自分」とか「みんなからちやほやされている自分」とかそういう自分になりたかったりするじゃないですか。欲求として。
あるいは「より高次な自分になりたい自分」みたいなのもいると思うし、「安定した生活を営みたい自分」もいるかもしれない。
意識しているもしていないにせよ、何かしらナリタイジブンっていうのが存在しているから、そのナリタイジブンに近づくためにヤリタイコトが発生している。
と考えたほうが自然だなーと思ったので、個人的にはナリタイジブンがあってヤリタイコトが発生するという主従関係になりました。
そういうわけで、ヤリタイコトがわからない場合、往々にしてナリタイジブンも明確でないなー
という結論になりました。

ってなった時に「それじゃあナリタイジブンっていうのはどこにいるんですか?」
って話になってくるわけなんですけども。

 

なんか知らないけど痛烈にあるコンプレックスの克服か、今までの人生で経験してきた中で最も幸福度の高い状態=ナリタイジブン じゃね?

 

20数年も生きてきたら、それなりにみんな、自分の人生の中で辛かったり、困難な状況に追い込まれたりしているはずなんです。この程度を相対評価する必要はなくて。
僕でいうと、浪人しているときは本当に大変だった。ふえええ。

その時に自分がどう思ったのかとか、どうしたのかーとか。
そういうのって思考行動習慣として既に備わっていたりします。
多分その延長線上にナリタイジブンがいるような感覚があります。あるいはその延長線上に抽象度の高いヤリタイコト!があったりします。

 

自分の場合

あくまでココであげた話っていうのは、具体的なパターン自分を抽象化して再抽出しているだけなので、 まあこんな感じでしたといってしまえばそれまでなのですが(自分の場合って言ってるし)

 

ナリタイジブンっていうのは、大学2年生の時に感じた、自分の人生ってこうあったらすごい良いんじゃね?っていう仮説を大学3年生の時に実証してみて、「おお、間違いなくこれっぽいわww」ってなって、

んじゃあその大学3年生の経験をめっちゃスケールさせた時に最終到達地点あんぞ、みたいな。
んじゃあその最終到達地点において、最も重要な要素、最も自分の幸福度をあげるファクターってなんなんだっけ?って考えていった時に、
ああ、今の自分が最終到達地点の自分よりも強烈に不足していて、そして喉から手が出るほど切望しているそれやんな。
という結論に至りました。恥ずかしいので具体的には書かないのですが、
それだけを自分は必要としているとしても過言ではないくらい、大切な、ナリタイジブンでした。

そうなってくると自然に、行動が変わってきます。
到達したいなりたい像から不足している要素は、あくまで肯定的な他者比較、というよりロールモデルからパクる。という方が妥当なのですが、
大学生活を後悔のないように終わらせる為に、やり残したことのないようにしたいっていうのも出発点としてありました。
そのため、残りの大学生活はとにかく勉強しよーって思い、いろんな本読んでます。
あとはそれが逆張りにもなってんぞ。という感覚。
とはいえ、最近は勉強しているというより、世の中(特に人)を構造的に、原理的に理解したいっていう欲求に基づいている感覚のほうが強いです。

 

ナリタイジブン×抽象度の高いヤリタイコト=具体的な目の前のコト

こうなってくると、大体到達地点までの登り方を決めるのがすごくラクになってきます。「ああどうやら自分は医者になるというよりか、薬剤師になったほうが良さそうや」的な感じでパターンCが見えてきたりします。

具体的な職業選択や、アプローチ方法の選択は、今の自分の不足部分を補うように選択をした。というのが僕の結論です。とはいえ、究極的になにをどうしていようが生きていればナリタイジブンに近づけるんですけども、そのスピードができるだけはやいほうが良いだろう。という感じでした。

 
抽象度の高いヤリタイコトでいうと、僕の場合最近ずっと変わらず、
日本人の労働時間はもっと減らした方が良いよねえ
というやつです。これは働き方を根本的に変える必要性と、自己実現がもっともっと容易になる社会っていうのをサッサと達成しないといけないよねっていうHowとしてのソリューションでした。(この前のビジネスプランの発着点はそこから来てます。)

んじゃあそれを如何にして達成するかっていう登り方は割と複数解あるので、正直どれでもいいっていう結論でした。
ただ現状の不足分を考えると、実現できそうな距離感になった時に選択肢がそこそこあった方が良さそうな気がしたので、
じゃあ出来る限りテクノロジーで働き方を変えられそうなところ(資本力があり、テックにお金投資しまくっていて、それでいて未開拓の土地がいっぱいあって、若手に裁量権を多く持たせてくれそうなところ)に身を置いておきましょう。
というのと、制度・政策として変革可能性の高そうなところに身を置いておきましょう。
ついでに自己成長しましょう。
みたいな感じで意志決定しています。
18卒になる予定だったんだけど(中退しようと思ってたけど卒業はしたほうがいいという結論に至る話があります)なんだけど、なんか美味しい話ないかなと思って一社だけ受けておいたら、10月入社でもいいよーって言ってもらえたので、それなら行きます。みたいな感じで決まりました。

 

なんで一社しか受けなかったの?という問いに関しては
ダメだったら来年就活すりゃいんじゃね?
って思っていたのと、
上記の通り、んまぁ後付け論理もあるとして当てはまる会社ここじゃね?
って思ったのと、
理想の会社とかねーから、縁のある会社に決めてそこに集中したほうがよくね?

尊敬している先輩が複数人入社していて、その先輩が同期が優秀といって喜んでいるからここでよくね?

という答えなんですけども。
振り返ってみるとずっと無駄に選択肢を減らすやり方をしてきたなーと。

選択肢が多すぎると逆に悩むっていう一番最初の話があったので、
こっちのほうがわかりやすくていいなって思っていたんだろうという感じです。

 

っていうか、なんで堕落論なの? 

これまた尊敬している先輩から謎に送られてきた文章だったのですが、
最近の自分がこんな感じだったなーと思ったので、引用しておきます。 

 

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 

 

正しく堕ちて、それに耐え切れず這い上がる。
っていうのは凄い良いなぁと思ったんです。
今までの成功っぽい体験とかそういうものをゼロリセットするくらい「うっわ今の自分終わっとるやんけ」って思ってから、「んじゃもっかい登ろ。」
っていうやり方は、良さそうだな―という感じ。
自己否定的でもあるんですけど、現状の自分に対する肯定感を半分持っているという点において、実践的だなーって思ったんです。
また、それが他者比較からの解放にもつながっていくんやなと。
周りの人が頑張ってると焦るじゃないですか。
でも自分の中で進むべき道と、そのスピード感を覚えておけば、
あんまり気にならなくなってくるはずなので。

 

日本もまた、正しく堕ちていると思います。
堕ちたから海外もいいとは思うんですけど、僕は逆にチャンスだと思うんですよね。脱皮するチャンス。
なまじうまくいってると、改革推進派の声も届かないものなので。

 

 

というわけで、お話の続きはまた次の機会にでも。
もっと具体的な話聞きたいよって人は、連絡ください。

 

最近考えていること2

<恋愛について>
恋愛における選択の数々というのは、基本的にはこう、あってないようなものだと思っているんだけど、その中でも印象的だったのは、「その人じゃなきゃいけないっていうのは、その人と過ごしてきた時の中で生まれるもの」っていうのが今の自分にない視点だったと思った。特別という仮決定が特別感を育んでくれるらしいことに、僕は最近になって気づいた気になっている気がする。


結婚っていうのはライフイベントとして認定されていると思うんだけど、結婚っていうのを"したい"って思っていることそれ自体は"しなくてはならない" "して当然だ"っていう超自我を形成する文化や常識の中に存在して、その範疇における意思決定でしかないとなんとなく思ったりする。その他の要因としても、自分の子供を育てたいとか、そういうことを思ってみたりするわけだけど、自分の子供がほしいっていう感情的な要因は、"子供が第二の人生を歩んでくれるに違いない"っていうある種傲慢な発想から生まれているような気もする。

だからといって自分が結婚したくないわけではないんだが、単純に、"意思決定の仕方がわからない"ってところに、恋愛がうまくいかない要因があると思ってきている。
先にも述べた通り、意思決定の理論武装っていうのは基本的にうまくいくものではないはずなのに、こと恋愛における論理を超えた感情の移ろいに対して、僕はあまりに幼稚なロゴスをぶつけては、理想主義者の界隈に漂うだけだったんだなあと、酒を飲む席にて、決意を新たにする必要性を感じた。

決意を新たにするというのは、僕は実際に会うことがニアリーな解のような気がしていて、その時の感情の変遷を事細かに記憶することから始めようと思って。 
僕は単純に意思決定能力が理想論との狭間で蠢いているしょうもない野郎なので、単純な心の情動を的確に認識することが大事だということを思った。
その中でも特に、僕にとって大切にしなきゃいけない価値観だなぁという風に思ったのが、
"自分の人生をかけて、その子を守りたいと思えるかどうかと、たとえ一時の感情であろうと、その決意を固く守りきることができそうか"
もし仮に、この子を守っていきたいなって思ったら多分僕は僕自身の為の恋愛は成功するんじゃないかなあなんてそんな仮説実験を試みてみた。
それが中学時代からの判断軸だったなぁなんてことを思い出しながら(僕は幸薄そうな子が健気に頑張っている姿勢に心打たれる中学生だったのだ)

 

なんとなく、今の自分のままではきっとその子のことを幸せにすることができないって思って過ごしていて(自己実現を優先してしまうきらいがあるので) だから僕は同じレールの行方を辿れる人と出会いたい、ただその一心でただその時を待つばかりだったはずだと思う。
大事なのは、自分からきちんと行動に起こしていくことで、心揺さぶられる思い出を少しでも多く拾い集められたら、「その人じゃなきゃいけないっていうのは、その人と過ごしてきた時の中で生まれるもの」の本当の意味を知ることができそうな気がする。

 

最近考えていること3

 

言語化作業がどの程度必要かどうかについては、言語化作業を実際に行ってみるのが一番いいと思っていて、日記というのは思考のアウトプットとして最も威力を発揮すると思うんですよね。思考の言語化作業っていうのは自己内省の客観的思考とでも言い換えられそう。毎日できたらいいんだけど、僕は基本的に一日でアウトプットを出しきることができるタイプじゃないので、備忘録としての役割も必要なのかなと。その意味で、140文字という制限は僕にとって心地良いリズム感になってる(今日はとてもツイート廃人ですね)
前置きとして、一日でアウトプットを出しきることができないというのは一方で、一日でアウトプットを出しきらず、仮説検証を繰り返す必要性とアイデアセレンディピティを待つっていう側面があるので、必ずしも悪いことじゃないというか、問題が複雑であればあるほど、この仮説を立てる作業とその仮説を検証する作業と、その仮説を寝かせる作業が割と必要だったりする。



<特別な存在と認識論について>
個人の存在における特別は個体の認識に依存するっていうのが僕の持論なんですけど、今回はその点における自身の考えみたいなのを発散しつつ収束できればよいなというふうに思う。

特別な存在で在るというのはなかなか難しい命題で、これはちょっと考え方を見誤ると思考停止ともとれる結論に至ってしまう危険性があるので、なるべく価値のある解釈を行っていくことが必要だと思う。
まず、特別な存在というのは、わりかし環境との相対比較から成り立っているのが前提としてある。特別っていうのを辞書引きすると

"他との間に、はっきりした区別があること。他と、はっきり区別して扱うこと。また、そのさま"

って書いてあった。更に、ウィキペディアではこんな感じ

"「特」には抜き出るだとかほかの物より優れているという意味がある。特殊(とくしゅ)ともいう"

これを人と人との間で考えると、
「その対象が他の人とは違って優れているという区分がある」
ということになる。
だからこそ、特別な存在っていうのは相対比較がなされる存在がいてはじめて特別で在ることができるらしい。

だがその実は真逆で、環境との相対比較から成り立たない存在が特別であるというコペルニクス的転回に持っていくことができるっぽい。ただし、そのまえに相対比較がなされる存在がいてはじめて特別である論理について先に述べる必要がある。
まず特別な存在を推し量るには相対比較基準が必要になってくる。すなわち、その人だけに存在する"突出した何か"があるということ。これはつまり、他の人達にはなくて、その人だけにはある、という相対比較によってはじめて理解することができる。また、僕があえて他者との相対比較から成り立つと定義しないのは、取り巻くコミュニティが変動することによって、普遍であるか特別であるかが変わるからだと考えている為。
例えば公立中学の同級生の中に一人、東大生がいたらその人は突出した学力を持っている点において、特別であるといえるが、東大生というコミュニティの中ではコモディティ化してしまうので、特別ではなくなってしまう。

つまり、以下の二点が確定されて初めて特別な存在と認識することができる。
①環境、人の場合はコミュニティの範囲を確定する
②相対比較基準において突出する何かがあると認識する

ここまでくると簡単に以上の①と②が変動しうるという点において、特別な存在であるかは曖昧な価値判断基準でしかないのではないかという疑問が発生する。すなわち、環境との相対比較から特別な存在は成り立たないのではないか、という仮説が生まれるということ。
結論からいうと、個人の存在における特別は個体の認識に依存する(なんか当たり前のことをどやどや書いてる人みたいになってるけど笑)
①と②を規定するのは個人の裁量次第であり、認識の範疇によって確定される。これをコミュニティで統一の価値観を形成すると、
①一般的な日本社会において
②東大に合格するということは
③特別である。
という感じになる。(その他の例としてマッキンゼーに入る人が特別であるであったり、三菱商事から内定を獲得する学生が特別であるというのもこの幻想的価値基準から生じている)

だがこのコミュニティを同じような価値尺度で世界に広げると
①世界的にみて
②東大に合格するということは(東大よりも優れた大学が存在する点において)
③特別でない
という感じになるわけだ。

ここで新しい結論が導き出される。それが、
"コミュニティが形成する幻想的価値基準に依存して特別な存在であろうとすればするほど、特別な存在になることができない"

特別は他の物事とははっきりとした区別があることが前提としてあるから、東大に合格することが特別であるから東大に入るという価値基準で行動してしまうと、同じように考える東大受験生と差別化を図ることができない。
要するに、東大生は東大生という括りにおいて、あいまいな区別がなされているため特別になりきれない。
これはそのコミュニテイを形成している人たちにとっては大きな執着、こだわりであるんだよね。ただ一般的な国民にとって、100mを9秒台で走ろうが10秒フラットで走ろうが、両者ともに"足がものすごく速い人たち"でしかないんだよね(そのこだわりを持つことには全面的に肯定しているが)
結局、個人の存在における特別は個体の認識に依存してくる。

さぁ、ここで初めてコペルニクス的転回がものを言い始める。それが、
"環境との相対比較によって成り立たない存在こそが特別である"
という結論。結局のところ自分という個体が特別であるかどうかは、幻想的価値基準で規定され得ないのだ。個人の存在における特別は個体の認識に依存しているから。

結局、自分が自分であるという認識を高め、他者からの評価から独立した存在になって初めて、自身が特別であることを知覚するから、比較社会に生きる必要はない。生き方を大事に、かつそれにこだわって天寿を全うしたほうがいいよねって。

最後になったけど、僕がそんな比較社会に片足を濡らしながら、このままじゃだめだと幻想的価値基準に惑わされている時に、僕は僕でいればいいことを教えてくれたことその存在自体は、僕にとっては環境との相対比較になんかじゃ成り立たない存在であり、特別である。ということが言える。そしてそれが最も言いたかったこと。

結婚論

 

僕が大学一年生の頃、当時クソお世話になっていた4年生の先輩に23時ごろに今から家来いみたいな感じで、シャワーはとりあえず次の日の為に浴びてから終電に乗り込むことがままあったりした。そのときに集合していた当時僕達からみたらとんでもない存在だった先輩方の、結婚というトピックの際にぽろっと言われたことがあって。
「この歳になるとそういうの(結婚するということ)を考えざるを得なくなってしまうんですよ」って笑いながら、でも僕から見たらその笑みがなんとなく幸せなことなんだろうなっていう、まだ一年生の自分にはそういうトピックで盛り上がることもなかったからわからない、充実した時間みたいなのを覚えている。そしてその時感じていただろう感覚は先輩ともう同じ年齢になってしまった今なら少しくらいはわかるような気がしている。
意外とその感覚は車を運転しながらどうやら大人っぽい会話をしている空間においてもわりかし発生するもので、なんだろう。中学生の僕は常々そういった大人の幸福的瞬間にたいしてある種の憧憬を覚えていたと思う。
そしてその感覚は自分が幼稚園に通っていた頃から親が頻繁に連れて行く地元の居酒屋チェーンで幼馴染みと酒を飲んでいる時にも感じることだったり、社会人になった今でも集合場所がおなじみのマクドナルドだったりするときの感覚。ああ、僕はもう大人になったのだと、しみじみと、懐古しながら今までの歴史を振り返っていたりする。わかるかな?この変わらない空間と時間軸がうまく複雑な関係で切迫してくるが、その感覚が心地よくて。その一時の幸福度はすごい高い気がする。


<結婚における意思決定プロセスの内省>
22歳にもなると、そろそろ僕もそういうこと考えるようになるわけですよ。
僕がストレートに大学を卒業したら24ですから、そっから3年間ちょっとがんばろうみたいな感じで過ごしちゃうと、もう27歳じゃないですか。
27歳になってようやく、よし、頑張って結婚するどってなっても
あれ、なんかどうなん?みたいな感じになって結局婚期逃しますよねって話になってくる。
んじゃあ結婚しなくていいじゃないですか、婚期なんてないっすよ別に30代で結婚する人なんてザラなんですから、みたいな事になってさ。
確かに僕も僕でその理論には納得してはいるんですけど、個人的な見解として
なにかこう、30歳になってからの結婚ってイメージ的に、なにかこう戦略的というか、金銭的安定とか、社会的ステータスとか、愛の感性がちょっと汚くなってしまうような気がしてダメなんですよ。
もし相手が必ずしもそうは思っていないと思っても、社会にでてから出会う女の子にしろ、社会に出る前に知り合っている女の子にしろ、
そういう、確かに自分なんだけど本質的な自分ではない、つまり代替可能である価値に魅力を持っているのではないかっていう疑いが、自分の中で拭えないような気がしてしまうわけなんです。で、代替可能価値に魅力があるっていうのはつまるところ、もしもより良い案件がでてきたら流れてしまうわけなんですね。なんだかんだ自分がこの子と結婚したいと思う子の市場価値みたいなやつって凄い高いと思うし。
まぁただこれは相手の問題ではなく、自分の問題なので自分で解決すべきテーマではあると思いますが。

という点において、僕が大学に入学してから決めたことの一つとして、大学生活の最中に出会うことの出来た人と結婚するのが最も良いのではないかっていう仮説があるんですよ。どうしてかっていうと、

いうて僕って今なにもない状態なんですよ。想いはあるが、それをまだ実現していない状態(もちろん、ある程度どのくらいの社会的ステータスになりそうかっていう予測は立つが)が続いていると。お金ない、学歴(実績)ない、なんもない。相手も同様に、お互いにない状態で、何が特別を醸成するのかって話じゃないですか。(前提として大人の戦略的恋愛は際限ないし、特別とかないっすよ。競争社会です)なにもない状態で選択してくれるということは、表面的な代替可能な魅力ではなく、自分の内面的魅力を見て判断してくれてるわけじゃないですか。こんな僕をですよ。物好きなもんですよ(´・ω・`)
そして何より、その想いを支えてくれようとしていることそれ自体がぼくにとっては最も重要な気がする。同じ到達点を描けていることってなかなかないですよほんと。
というわけで、相手に対する固有性とか特別性っていうのを醸成するってなると、ある程度の判断基準が必要になってくるわけなんですよね。それをどこまで描けているかが割と大事で。その条件を自分の中で満たした時に、多分彼女ができて、で、大学生のうちにできた彼女と結婚するのが最良みたいな感じですかね。

僕が結論として出したのはこんくらいかな
①同じ到達点を描けている
②価値観の一致率
③愛嬌がある
④気配りができる
⑤話が面白い
ここまでが跳満って感じ。こっから裏ドラ(おっぱいが大きいとか)が乗ると数え役満になりますみたいなことが起こる。役満になったらもう求婚ですよね。求婚します。求婚されたらああこいつハネたなって思ってくれて結構です←


で、結論として、以上の5つを制覇するやつなんてこの世に存在しないわけなんですよ。それだから職業が童貞なんですけど、でもこの辺って本当に譲れなくて。
これらの結論って、すべてさ、一生一緒にいる為にお互い必要なものっていう認識をしていて。特に特別性をはらむのが①と②なんだよね。役職柄、ビジョンとかをすげえ大事にする人なんだけど、これから先どんなことが起ころうと、ここに到達するまでお互い頑張る、であったり、お互い信頼しあっていける。みたいなやつこそが大事。それ以外に生じるお互いの嫌なところ、嫌いなところ、あるいは断罪みたいなものって、その同じ到達点を描いている点と価値観が一致しているという固有性なんてものに比較したら、取るに足らない些事なんですよね。そんなもので一緒にいられなくなることなんて多分ない。もし自分の感情的稚拙さであったり、不寛容さのせいでその一致性を喪失してしまうくらいなら自分の問題として解決しちゃったほうがいいですから、間違いなく。そうなってくると、なんか恥ずかしいけどもそれこそが愛の境地だなっていうのが朧げながらわかってきたような気もしていて。

そうそう、これだと僕は少しだけ相手に求めすぎているような気もするのですよ。だからその結婚っていう制約と誓約にかけているのが
"その子とその子ども(たち)を一生守り切る"
なんですよね。僕はマザーテレサになりたい←

僕は残念ながらとても人に言えたような家庭環境ではないです。それくらいブラックな家庭環境で育ちました。
だから中学からその事ばかりを考えてきたし、結婚ってやつはなんなんだと。家族ってなんなのだと。 別にそんなしょーもないものなくてええんやないかみたいな。
そんなブラックな家庭出身なやつが幸せな家庭なんて築けるのかみたいなところもいわれるし。母子家庭の奴とは結婚すんなってよく言われるじゃないですか。僕は多分相手方の両親には結婚反対されるタイプの人間なんですよ。奨学金という名の借金は1000万弱ありますし。現に元カノの親にはショッキングなこと言われまくりましたよ。


でもそれって悔しくないっすか、なんで俺の幸せお前らが決めんねんと。
俺が幸せになれるかどうかは俺が決めたらいいことだし、なによりそれができないって思われることと、自分が家庭を持った時にこの悲しみの連鎖をどうしても断ち切りたいと思って。
なにより僕は家族ってやつの幸福感を知らないから、それを知らずに死にたくはなかった。

おかげさまで、親に感謝するって気持ちはみんなより先に知っていて。
毎日弁当つくってくれるおかーちゃんがいることのありがたみなんて、みんなわからんのですよ。もし仮にわかっていたとしても、その感謝を伝えるところまでにも至らんし。
少しでも苦労させまいって、パートで働きながら早起きして、帰ってきたらかならずお帰りっていってくれる両親の存在のありがたみを僕はみんなより先に知ることができた。これは失ってから初めて気づくものなのかもしれないね。


今どきって結婚の費用対効果が悪すぎてしたいと思う人が減ってるじゃないですか、ホリエモンとかはあちゅうとかよく言うし。それって損得のものさしで測ってるからそうなると思うわけなんですよね。僕個人としては損得で測っても得になる状態を描けばいいと思っているので、結婚は確かにコスパ悪いけど、別にそれでいいんじゃないですかって結論なんすよね。

まぁ、そういうわけで、もう三年生だし、22だし、来年23だし
そろそろ潮時なんですよ。気楽に待つっていうのもなかなかできなくなってきた歳なので、今年はがんばっていきたいなーって思います

成長に関して感じていること。

C-channelの森川さんと南場さんの対談で、成長したいっていう人は成長できないみたいな記事があがっていましたが、まことしやかに、最近の学生は成長したい、起業したいというマジックワードを並べているらしく(学生なんだけどその界隈の話がよくわからない人間なので)僕なりにこう、人生の賞味期限に切迫する勢いでふみりたいと思います。文るって流行らせたい。ふみる。

<人の能力について>

人の能力をどのようにMECEに分けて考えるかっていうのがひとつ、成長について話していく上で必要だなーっていうのを思うので、それっぽいものを引用してみようと探してみると、どうやら世の中には多重知能論っていう理論があって、これはハーバード大学の心理学者、ハワード・ガードナーが提唱したものなんだけど、これが8つの知能持っていて、人によって強みとなる部分が違うっていう。その8つが

対人的知能
論理・数学的知能
博物的知能
視覚・空間的知能
内省的知能
言語・語学知能
身体・運動知能
音楽・リズム知能

に分けられてる。多重知能論で検索した時にでてきたやつを引用してみるとこんな感じ。

彼は紙と鉛筆だけで測るテスト知能だけではなく、それ以外の知能にも目を向けるべきだと主張しています。「人は皆それぞれ一組のMultipleIntelligences(多重知性)を持っており、少なくとも8-9つの知的活動の特定の分野で、才能を大いに伸ばすことが出来る。(1983)」その想いから、intelligenceに複数形のsをつけています。
MI理論によると、個人があるインテリジェンスを使うことに「より多くの時間をかけるほど、そして、指導と教材が良ければ良いほど、その人は賢くなる」。差異が、否定されたり無視されることなく考慮に入れられたなら、教育は最も効果的に働き、生徒に「自分は何者であり、何ができるか」を理解されることが重要であるとガードナー(1999)はまとめています。

いやーこれは確かにその通りだなって思うわけで、この辺は学習環境によって後天的に育つものなんだよね。このそれぞれの分野を徹底的に極めるとに錦織選手みたいになったりするのかなー。そう考えると、フィジカル面とかよりも運動に対する脳の構造みたいなところが発達していればしているほど、身体が脳の思うように動く、っていったほうがなんか適切な気がする。それに対しては脳番地で有名な加藤俊徳さんの記事が参考になりそう。この人は母に「頭は使えば使うほどよくなる」って言われて育ったそう。

小学3年生から、何でもいいから新潟県でスポーツの1位になって親を喜ばせようと思って、5年計画、あるいは6年計画を立てたんです。中学3年生の8月6日か7日に県大会があって、そこで本当に優勝するんでけど、その前に一人でグラウンドで練習して汗がタラタラたれてるときに「脳だ!」って気づいたんですね。なぜか。「自分の体を動かしてるのは、この脳みそなんだ!」という……。皆さんは今、脳だって何だってわかりますよ。でも40年前の脳なんて、紙切れにも書かれていない、新聞にも出ていない。
要するに、脳というのは「経験して形を変えて成長する臓器」だったんです。身体の中で、未熟から始まりそれでも未完な臓器というのは脳だけなんです。それそのものが脳の役割だったんですね。

経験して形を変えて成長する臓器は脳みそだけらしいですね。脳みそすげー
逆に言えば、使わなければ衰退するってことにもなりえそう。

 

 

<人間種族値論>

 

それに対して僕個人の思う考え方は、種族値論っていう勝手なものを持っていて。これは要は、人間もポケモンと同様に種族値個体値的なものがあるんじゃないの?ってこと。つまり、先天的にきまっている能力差っていうのが存在しているんじゃないの?っていう理論。

600族と呼ばれるポケモンであったり、400族と呼ばれるポケモンであったり、これは、先天的に決まっているもので、
こうげき、ぼうぎょ、すばやさ、とくしゅのうちのいずれかにこう、なんかもともとこれくらいみたいな感じで振り分けられてる。
同じ600族でも、こうげきが140あるやつもいれば、ぼうぎょが200あるやつもいるのと同じように、人間も同様に、もともとの種族値が決まっているんじゃないかっていう仮説。まぁぼくポケモン全然詳しくないんですけどね。

イメージこんな感じ
普段生きていてここ結構重要とされてるよねっていうものと親和性の高いものを配置してみた感じ。別に科学的根拠はない。ただ経験則として、先天的にこのへんに割り振られてるイメージ。容姿は身長体型も含むよね。
これらの先天的才能を認知した段階で、成長促進が開始され、次第に強みの領域、極みの領域に到達していくんだろうと。
この理屈でいうと、凡人は凡人の領域を出ることができない理論になってるから、否定されたい理論ではある。個々のできる限界は決まっていて、その限界を超えた範囲のことをすることはできないって理屈だから。ただ、基本的にこの才能以外の乱数も多分に含まれてるのが人生だから、まぁ全然能力だけでは規定されはしないはず。でもそれにしても世の中はどう天変地異が起きたらそうなるの?っていう先天性を疑いきれないファクトが存在しているのも事実で。
だが、その種族値に関しては790のやつが必ずしも世の中で大成するわけではないし、400のやつが世の中で大成することも往々にして起こっている。

じゃあその違いと共通項ってなんなんだろうねってことを考えていくと、根幹にあるのは考える力、ではなく物事の捉え方だっていう結論に落ち着く。

ここで最終的に話していきたい持論に戻っていくんだけど
成長するっていうのは何を指しているのか、という問い。



<成長する理由について>

「成長したいです!」っていう言葉には何かしらの目的が存在しているはず。なんだけど、世間的な学生を見ていると

①目的が明確
②目的が不純
③目的が明確でない
のいずれかになりやすい。

これらの全てのパターンに対して、成長したいですか?っていう問いを投げられた時に①番の人たちは成長することができそう。
それに対して②番③番に関しては
"目的が明確でないから、何をどうしたいのかがわからないがゆえに、成長したいという抽象度でしか言語化できない"為、成長するのが難しくなっている。成長を促進させるためにはその機会に対しての意義付けを明確にする必要がある。さもなければ、その機会の経験値を大きく損なう恐れがある。

イメージとしてはこんな感じ。
"成長したい"っていう抽象度でIT企業で長期インターンシップを行いました。
ってなった時に得られる実経験値量は本来得られる経験値量を下回るんじゃないか。っていうのが個人的な見解。
それに対して、"自分はプログラミングを3ヶ月で習得し、来年4月に起業する"
っていう抽象度で同様のインターンシップをしていたとしたら、入ってくる情報と気付きの数が圧倒的に変わる。多分プログラミングも自発的に勉強している気がする。それに対して成長したいっていう抽象度の学生は多分インターンをしていることで満足をしている気がする。

要するに、その成長機会に対する意義付けをどこまで明確にするかによって、成長速度が大幅に変わり、その意義付けは目的の明確さに左右されるということ。

基本的に世の中のアクティビティで学べないことはあんまりなくて、その機会をどういう角度で見るかによって、成長の仕方は大きく変わる。言い換えると、成長スピード、ここでいう精度があがる。精度は一度あがると下がることがあまりないので、コンスタントに成長スピードを上げ続けることができる。

とはいいながら根本的に思うのは、
世の中のだいたいの事象の解釈は考え方次第で大きく変わる為、
最も先に熟成、成長させるべきなのは、自分の考え方であり、
成長する為にはまず成長したい理由について熟考すること。な気がする。

成長というものをどう定義するのかにもよるが、結局のところ、その目的の究極的なところは自分の幸せを享受したいが為にすぎない。が、その幸福ロジックをそもそも自分の中に持たず、自己利益の追求をもたらす成長を掲げている人は存外多いんじゃないのかなっていうのが個人的な所感。
そういう人は確かにスキルセットは充実しているけど、幸せにはなれていないし、伸び悩みが発生する。

<成長プロセスの妥当な順序>

もし能力をマインド、ナレッジ、スキルで分けるとしたら、自分だったら、この順序で能力開発していくのが妥当だろうと。なんでかっていったら、例えば自分に自宅から新宿まで15分で攻める自動車運転技術は自分の人生において必要ないと判断するのはナレッジからくるし、そもそもあなたは何をしたいんですか?という問いに答えるのは常に自分のマインドによって回答されるから。この辺はメタップス佐藤さんのロジックを超えたロジックも参考になる

構築できる「ロジック」はその人がかき集めれられる情報の範囲に依存し、それを見て「納得」するかどうかは意思決定を行う母集団の背景知識に依存してしまう、という事になります。


確かにスキルセットが充実していて、実績もきらびやかな人間は評価されやすく賞賛を得られやすい。(現代においては若干変化が見られ始めている気がするけど)例えば東大に入学することは世間的に見ても賞賛に値する実績だと思う。が、そもそもなんの為にあなたは東大に入るのですか?という問いに適切に答えることができないと、そのスキルセット(東大に入ること)が無駄になることは本当に多い。もしくは、マインドセットの段階で到達点が著しく低い、例えば生活の安泰などを掲げてしまうと、いくらスキル(またはアビリティ)を磨いてもその効果を最大化させることが難しい。
同様に、承認欲求や賞賛をモチベーションとして活動すると、大体自分の満足できる到達点にくるか、エネルギーが風化して、到達していないにも関わらず一定の評価で満足できてしまうケースがある。時間が経つにつれてエネルギー量は減少するのが一般的で、エネルギー量が減少すると共に満たされる基準も下がるから。
結論として、まずは人間性を磨いていくことにどちらかというと注力するのが学生のうちはいいんじゃないの?っていうところと、人間性を磨く(マインドを磨く)ことは別に特別なことではなく、どのような機会においても人間性を磨く機会は多分にある。要は機会依存しないっていうところをもうちょっと学生は理解しておく必要があるんじゃないかなって学生身分ながら、周りを見渡して思うこと。



<生き方の大切さ>

成長したいです!っていう目的ってそもそもなんなんですか?っていう成長の動機付けみたいなところって、つまるところどう生きていきたいかに尽きるんじゃないのかなって。そうなってくるとやっぱり古典とか、偉人の話は個人的には大切にしたいなーって思う。その中でも個人的に格別だったのは稲盛さんのお話かなって。

「一つのことに打ち込んできた人、一生懸命に働きつづけてきた人というのは、その日々の精進を通じて、おのずと魂が磨かれていき、厚みのある人格を形成していくものです。働くという営みの尊さは、そこにあります。心を磨くというと宗教的な修行などを連想するかもしれませんが、仕事を心から好きになり、一生懸命精魂込めて働く、それだけでいいのです」、「自分がなすべき仕事に没頭し、工夫をこらし、努力を重ねていく。それは与えられた今日という一日、いまという一瞬を大切に生きることにつながります」

稲森さんの方程式で有名なのが以下のやつ
「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」
考え方ってのは100~-100点まであって、考え方がマイナスに働いてしまうといくら能力があっても幸せになることが難しいみたいな。

この考え方っていうのを生き方から引用するとこんな感じ

「つねに前向きで建設的であること。感謝の心をもち、みんなといっしょに歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心をもっていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲ではないことなどです」

これがお客様の健康を全く気にせず、売上だけを伸ばすことに尽力したり、従業員のことを顧みずに働かせ続けるとうまくいかないっていうのは世の中になかなか多い反例な気がする。

今自分が私利私欲の為に走っていないか、自分の名誉や賞賛の為に動いていないかを考えてからJAL(KDDIだっけ?)の会長に就任したエピソードは、僕の生きていきたい他者成長の為の自己成長に大きく通じるところがあるなーって思った。

 

<何の為の成長か>

成長する理由っていうのがなんの為なのかっていうのを考えていくと、最終的には自己から分離してくるんじゃないのかなーっていうのか個人的な見解。結局のところ、人はひとりでは生きていけないんだろうなーってことを、他者から賞賛や承認を求める人間の性からも考えてみたりする。
中盤で記載したけど、他者の為の成長も究極的に自分の幸福を享受する為にすぎないのであるのは間違いないのかなって、でも相互依存的に幸福追求がなされることは悪くないなってことを思ってみたりする。

<僕が成長する理由>

感動するくらいきれいな賞味期限の記事は、僕の生き方と少しだけ似ている部分があるのかなって思っているからこそ、僕と佐藤さんのような境遇に生まれる日本人の行き着く所はこういう考えなのかな。また、だからこそこの人には負けたくないなって思うようになった。

昔は意識していなかったんですが、事業や人生の選択をするときは必ず一番難しい道を選ぶようにしてきました。最初は自身の成長のためだと思っていました。でも、最近それは違うと気付いたんです。そもそも私は超めんどくさがりなんで矛盾した行動なんです。
実際は、過去の自分(のような人)に対して「事例」を示したかっただけでした。
先行事例が無いと人間は何かを信じるのがとても難しいんです。自分の未来を信じることができないことほど不幸なことは無いと思っています。
今までやってこれたのも、先行事例を作ってくれた人達が居てくれたからであって、どうしたら良いか解らない時もその「事例」こそが自分にとっての唯一の「希望」でした。
生まれたときからたくさんの可能性が用意されてる人もいるし、そうでも無い人もいます。ゲイツの言うように人生は公平では無いですし、現実の残酷さは否定できないんです。
それでも過去の自分のような人には「人生はこんなものだ、しかたないんだ」と言って欲しくなかったから、できるだけ難しい道を選んで「不可能なことなんてあり得ないし、人間は何者にだってなれるんだ」という事を証明したかったんだと思います。
きっと誰かに貰ったものを返したかっただけなんだろうと妙に納得できました。
それを思い出して、やっぱり『理想』は絶対に捨ててはいけないんだとまた思えるようになりました。

僕が生きる上で大事にしている道徳・生き方・考え方は
内発的動機づけ、共同体感覚、返報性の3つ
誰かにもらったもの(恩)を他の誰かに返し続けることができたら、幸福は相乗連鎖に包まれるなーと。その返報性の連鎖反応を起こす為にアントレプレナーシップを持って、自分が行動に起していくことで、自分と同じような境遇の子どもたちや、これからの時代に生まれてくる人々のロールモデルになれるんじゃないかって思うようになった。
僕の行動の結果がゆくゆくは教育や世の中をより良くすると信じているから、成長角度を緩めることを決してしてはならないなって思うし、その焦燥感から、なんでそんな頑張ってるの遊べばいいじゃんって言われても遊ぶ気にはならず(別にそんな頑張ってないし)、むしろ今が一番楽しいように生きているって自信をもって言えるんだと思う。